都々逸とは、七・七・七・五の音数律に従い唄う俗曲で、発祥はここ宮宿。始めは「熱田神戸節」とされていたが後に江戸で流行。都々逸として全国に広まった。
昔はこの宮で鈴祓(はら)いを受けてから熱田神宮に参拝するのが慣わしだった。毎年7月31日に無病息災の神事「茅(ち)の輪くぐり」がある。この日限定の御朱印が頂ける。
熱田湊は古くから伊勢湾を核とした物流の中心地で、東西文化や経済の交流で大いに栄えた。織田信長がこの湊の権益をめぐり桶狭間の戦で今川義元に歴史的勝利を収めた。織田信長亡き後も、豊臣秀吉や徳川家康との関係は続いた。江戸時代東海道宮宿と桑名宿を結ぶ七里の渡しがあり、日本一の旅籠(はたご)数を誇った。この頃、七里の渡し船着き場横には徳川将軍が宿泊できる東浜御殿(海上要塞)があり特殊な風景が多くの浮世絵に残されている。現在は、当時の常夜灯や時の鐘が復元された宮の渡し公園になっている。
宮宿は東海道の脇街道であった佐屋路や美濃路への分岐点で交通の要所でもあった。大名、旗本らが宿泊する本陣2軒、脇本陣、奉行所など多数で隆盛を極めた。交通の要所となった宮宿には松尾芭蕉、シーボルトをはじめ多くの知識人や文化人が訪れ、句会や舟遊びなども楽しんだ。松尾芭蕉の看板が宮の渡し公園に設置されている。
一説によると、寛永元年(1624)に初代尾張藩主徳川義直の命で神戸(ごうど)の浜を埋め立てて出島を作り、そこに造営された。寛永11年(1634)には、三代将軍徳川家光が上洛の際に止宿した。その敷地は東西120m南北100m以上で、海上城郭の様相を誇っていたとされ、御殿は名古屋城本丸御殿に匹敵する壮麗な仕様であったと考えられている。鯱をいただいた小天守閣のような西側の高楼は、桑名城の天守閣に対抗して建造されたものという。これを桑名楼と呼び、東側の楼閣を寝寒(ねざめ)楼といった。御殿の姿を示す資料は乏しいが、2018年に徳川林政史研究所(東京)において詳細な間取図が発見された。東浜御殿の位置は、現在の内田町付近であったと推定される。絵図にある鳥居近くには西浜御殿も描かれている。
(熱田区まちかど発見! 銘板による)
丹羽家は幕末のころ、脇(わき)本陣格の旅籠屋で(はたごや)伊勢久と称し、西国各大名の藩名入の提灯(ちょうちん)箱が残されている。正面の破風(はふ)付玄関は、かつての格式の高さを残している。屋根に上がっていた卯建(うだつ)は戦災で破壊され、現在は袖(そで)卯建のみである。創建は不明であるが、天保12年(1841)の「尾張名所図会(ずえ)・七里渡船着(しちりのわたしふなつき)」には当家のものと思われる破風付玄関のある旅籠屋が描かれている。昭和59年、市の有形文化財に指定された。
(名古屋市教育委員会 立て札による)
木造・二階建・切妻造・桟瓦葺平入り(さんがわらぶきひらいり)・正面庇付き(ひさしつき)で、この建物は明治29年(1896)武藤兼次郎が建てた「魚半」という料亭であった。太平洋戦争中は三菱重工業の社員寮として、現在は高齢福祉施設として利用されている。建造時期は新しいが、近世の町屋(まちや)の形式を継承しており、旧船着場に面して建ち、先に指定された丹羽家(伊勢久)とともに、宮の宿の景観をしのばせる数少ない遺構の一つで、市の有形文化財に指定されている。
(名古屋市教育委員会 立て札による)
熱田荘の奥座として建てられ、戦時中の空襲から奇跡的に焼け残った。明治・大正・昭和の古民家が見学できる。(ミニ観光案内所併設)現在はNPO法人が管理している。
大瀬子公園の辺りにはかつて熱田魚市場がありました。このモニュメントは、魚問屋として使われていた建物の保存部材を活用して庇(ひさし)の一部分をイメージしたものです。明治初期の建築で、規模も大きく、久は5本の柱を並べた幅約18mの広大な作業空間であり、熱田の魚問屋の面影を伝える建物でした。柱には魚の扱いなどに用いた手かぎの痕(あと)が残っています。
室町時代には、熱田で魚の市が開かれており、織田信長の居城であった清須城に魚を運んだといわれています。江戸時代には大瀬子と木之免に魚問屋が設けられ、魚は問屋を経て市場で売買されました。尾張名所図会「熱田の濱(はま)夕上り魚市」には、江戸時代末期の夕方の熱田魚市場の様子が描かれています。市は、朝と夕の2回開かれ、大変にぎわっていました。
*尾張名所図会:江戸時代の尾張地域の名勝、史跡などを絵と文章で紹介した地誌
(名古屋歴史探索銘板による)
あいち(愛知)の呼び名は熱田万葉集「年魚市潟(あゆちがた)潮干にけらし 知多の浦に朝漕ぐ船も 沖によるみゆ」の枕詞が語源と伝えられる。
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Comment
裁断橋で母の深い愛を知る。熱田湊で宮宿の当時の旅籠屋を観る。魚問屋モニュメントで明治時代の柱に触れる。七里の渡しの意味を知った時、一瞬で戦国時代にタイムスリップ。ここは、まだまだ歴史が生きている!