熱田ぐるりんマップ | 5コース

熱田三大古墳・高座結御子神社

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神話に魅了され白鳥~断夫山〜高蔵古墳へ。高座結御子神社から鮮やかな鳥居に導かれ稲荷社に迷い込む。秋の青大悲寺では、荘厳華麗な佇まいに心を打たれる。ここ熱田は赤の世界で人々を魅了します。

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1誓願寺

源頼朝の生誕の地

源頼朝の生誕の地。母は熱田大宮司の娘、由良御前。産湯の井戸がある。弟の源義経は熱田神宮で元服し、大宮司が名付け親といわれる。1529年創建の尼寺で、初代日秀妙光尼が竹千代(徳川家康の幼名)の養育係が縁で「葵の御紋」が門にある。


2白鳥古墳

ヤマトタケルノミコトの御陵

6世紀初め頃に造られた、長さ約75mの前方後円墳。ヤマトタケルノミコトが能煩野で亡くなった時、その魂が白智鳥(白鳥)となって飛び、この地に舞い降りたという古事から、ヤマトタケルノミコトの御陵とされている。

2法持寺

熱田神宮と縁深き数多くの著名人が来訪

弘法大師が延命地蔵菩薩像を本尊とした小祠に始まる。熱田大宮司千秋家の菩提寺。文人墨客の来訪が多く、各種の句碑が残る。白鳥山の山号は白鳥古墳と深い関係あり。


3断夫山古墳

全国屈指の大きさを誇る尾張氏のお墓

国指定史跡の前方後円墳。古墳時代後期の6世紀初め頃の築造では、全国屈指の大きさ。全長151m、高さは前方部16.2m、後円部13mで、尾張氏の墓とされる。当時の尾張氏は大陸との交易があり、独自文化と高度な技術力を持っていた。後にヤマトタケルノミコトとミヤズヒメノミコトの恋愛神話として語られ、「夫を断つ=断夫山」の呼び名となった。


4青大悲寺

大通り沿いのLittle Kyoto

秋には、鮮やかな赤の紅葉の世界に一気に引き込まれる。尼寺であり、如来経の開祖「きの」の説法の記録は「御教様」と呼ばれ、名古屋弁そのままの語り方を特徴としている。


5高座結御子神社

歴史深い熱田神宮境外摂社

熱田神宮本宮と同時期創建とも言われている。子育ての神様として、毎年6月1日の「高座の井戸のぞき」の行事が有名。授与所にて御朱印が頂ける。

5高座稲荷社

知られざる映えスポット

高座結御子神社参道途中に高座稲荷社がある。豊臣秀吉が幼少時、母に連れられて参拝したことから、出世稲荷として知られている。


6高蔵古墳群

8基の円墳が敷地内に散在

明治41年、鍵谷徳三郎作成の地図によると、高蔵貝塚に隣接する高座結御子神社の境内に、8基の円墳が社殿の西と南に散在して記されている。昭和29年(1954)に名古屋大学が第一号墳を、同33年に第二号墳を発掘した。第一号墳発掘結果によれば、径16mの墳丘の中に川原石を積んで横穴式石室を設け、前後二室に分かれた細長く中央のふくらんだ玄室(遺体を置く室)と、これに続く羨道(せんどう<道路にあたる部分>)とがあって五体分の人骨と副葬品として直刀・金環・須恵器(壷・高杯)をいれていた。古墳の構造は7世紀初めごろと思われる。

高蔵貝塚

熱田台地の東の緑辺部を占め、市道南大津町線をはさんで、北は沢上一丁目から、南へ外土居町・高蔵町・夜寒町にまたがり、10か所以上で小貝塚・遺物包含層を含む一大遺跡群を形成している。高蔵付近は石鏃発見地としてすでに知らされていたが、明治40年(1907)六月、熱田町が名古屋市に編入され、栄町から熱田にいたる道路工事で、多くの貝層・黒土層・溝状遺構が 発見された。翌四一年(1908)1月から3月まで陸軍幼年学校教官鍵谷徳三郎が調査を続け、その結果、前期以降の弥生土器として円窓付き土器や丹彩の華麗ないわゆる宮廷式土器、石鏃・磨製石斧・快入石斧・凹石麿石、繭形石錘などのほか、馬の歯や足の骨を出土した。弥生文化も石器を使かっていたこと、当時国内に馬がいたことを証明するもので、学会の注目を集め、高蔵会貝塚は一躍有名となった。

代表的な出土品

高蔵遺跡の代表的な出土品には、赤で彩り、幾何学的な模様をほどこした「パレススタイル土器(宮廷様式)」と呼ばれる弥生土器がある。写真の土器は国の重要文化財に指定され、東京の国立博物館に収蔵されている。 旗屋小学校の校庭からは、シカを描いた線刻土器や中国の前漢時代末期につくられた虺龍文鏡(きりゅうもんきょう)の破片(破鏡)などが出土している。現在破鏡は、県内では清須市の朝日遺跡と本遺跡のみ出土している。虺龍文鏡(きりゅうもんきょう)の破鏡は、九州・四国・中国・近畿・東海など20ヶ所から出土していて、弥生時代後期の高蔵遺跡は、他地域との交流があったことがうかがわれる。 遺跡に関する問い合わせ:教育委員会文化財保護室 052-972-3268

高蔵遺跡

高蔵遺跡は、今から1800年以上前の弥生時代を代表する遺跡で、弥生前期の文化圏の最も東にある遺跡の一つです。弥生時代を中心に古墳時代から鎌倉時代ごろまでの遺構・遺物が高蔵町、五本松町、夜寒町など各地点で数多く確認されています。

遺跡が知られるきっかけ

明治40年(1907)に名古屋市と熱田町が合併。その冬に大津通の拡張工事が行われた際、多くの土器が出土。これを知った教員鍵谷徳三郎氏は土器や石器の地点や貝塚の様相を観察した場所を図として記録したほか、出土した土器の詳細なスケッチなどをまとめ、明治41年5月、東京の「人類学雑誌」に発表。弥生土器と石器が同時代のものであることを明らかにしたことは、その後の弥生文化研究に大きな影響を与えた。

(教育委員会 銘板による)


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熱田台地上に栄えた熱田と象の鼻

象の鼻に似た熱田台地

弥生時代でなく高蔵時代と呼ばれたかも・・・このコースのキーワードは「熱田台地」。弥生時代、名古屋の南部、西部はほとんど海だった。像の鼻のように細長く伸びた、陸地の南の部分を「熱田台地」と呼ぶ。古代の貝塚の遺跡、断夫山古墳、白鳥古墳や古い歴史を持つお寺や神社など、各時代の足跡が数多く熱田に残っているのはこの台地のおかげ。この台地がパワースポットの源と言える。熱田台地は南北約4㎞、東西0.7~1㎞、標高は熱田神宮辺りで約5~7m、名古屋城辺りで約17m。昔は西側は崖だった。熱田はこの台地上で熱田神宮の門前町、漁業の町、物資と情報の交わる街道、更に海と陸との接点として多彩に発展してきた。


Topics - 2熱田台地の形状

金山総合駅にヒントあり

熱田台地を確認できる場所がある。それが金山総合駅西側の橋。台地の東から西に線路が横切り、掘り抜いてある。見渡せる形状と規模は一見の価値がある。


Topics - 3金山神社

鍛冶職、鉄職の社

永年間(約600年前)創建。鍛冶職、鉄職の信仰厚く、大祭は毎年11月8日の「ふいご祭」。


Topics - 4住吉神社

水運守護・航海安全の守り神

1734年(享保19)創建。水運守護の神・航海安全の守り神。境内の狛犬は頭に1本の角があり、江戸時代中頃の名古屋では最古と言われている。


Topics - 5夜寒の里石碑

かつては眺めの良い閑静な別荘地

熱田神宮の北から高座結御子神社の南あたりまでは、歌にもしばしば詠まれた海(年魚市潟=あゆちがた)も見渡せる、眺めの良い閑静な別荘地だった。


Topics - 6武家屋敷門

旗屋小学校:武家屋敷門跡

明治42年旗屋小学校創立時、設置された。戦災を免れ現在も同校のシンボルとなっている。


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